テルミン達
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キャベツのお城誕生秘話

  ガレーエフを読む・ 2(P22~P51)

  私の人生を変えた「1時間半から2時間《.................................................. 22
  革命的な芸術、あるいは「電気への愛《.................................................. 29
「電気的な先見性《への頌歌 ― レムレスとの最初の接触.................................... 32
  ソビエト・ファウスト、黄魔の国へ.................................... 37
 

P22
ソビエトのファウスト ~ レフ・テルミン ― 電子芸術のパイオニア
(いきなりテルミンを持ち込んでえらい人を紊得させる、って、大変な事です。
しかも当初は無伴奏での積もりだったらしい。
執務室にピアノがあって、しかも秘書がピアノが弾けて良かったです。)

 

私の人生を変えた「1時間半から2時間《

レフ・セルゲーエヴィチ・テルミンがレーニンと会った話は、彼自身の講演で何度も耳にしてきました。学者向けの講演でも、小学生向けの講演でも。レーニンの命日に合わせて行われた様々なインタビューでも、何度もその話を読みました。

何しろ、現代においてテルミンは、おそらく最後のモヒカン族の一人であり、人々は彼の前で「彼はレーニンに会ったのだ!《と、感嘆と感動に胸を震わせずにはいられなかったのです。そして、これに「テルミンとレーニン《シリーズの特集記事1) を照らし合わせると、物語はこうなります。

1922年3月、春のある日、テルミンは、ラジオ評議会議長であり、人民通信委員会の委員でもあったA・M・ニコラエフ(一体何の正体上明の肩書きなのかはさておき)――つまりソ連の「ラジオ担当委員《――に探し出された。テルミンはデツコエ・セロー時代からニコラエフを知っており、モスクワではまさにその人民通信委員会や、最近開催された電気工学会議で彼と面識があったのです。

ニコラエフは、テルミンが大会で行った演説についてレーニンに伝えたところ、レーニンは当然、それに興味を示したという。なぜ「当然《なのか? それは、ニコラエフが後に(1937年に処刑される前に)回想しているように、「ウラジーミル・イリイチは、技術的な成果や革新に並々ならぬ関心を持っていた。国家、政治、党の最も重要な問題で多忙を極めていたにもかかわらず、彼は技術開発、特に無線技術の動向を追う時間を見つけ、他の部門長が他の多くの問題に追われて見落としてしまうような細部にまで踏み込んでいたことに驚かされる《からです。そして締めくくりとして――「彼はすべてを見て、すべてを知っていた《という素晴らしい言葉があります。

まあ、それはちょっと言い過ぎでしょう! しかし、それ以外は紛れもない事実です。

レーニン(ウリヤノフ)は、テルミンと同じく貴族の家庭に生まれ育ちました。

彼は高校時代は優秀な生徒で、優等で卒業しました。その後、カザン大学で学びました。彼が物理学に精通していたことは、彼の著作『唯物論と経験批判主義』からもうかがえます。

テルミンはクレムリンに2種類の装置を持ち込みました。1つは音楽演奏用、もう1つは非接触型防犯警報システムとしてこの装置を利用できることを実演する為のものでした。テルミンは幸運でした。クレムリンの執務室にはグランドピアノがあり、さらに指導者の秘書であるL・フォティエワも音楽院出身だったことが分かったのです。彼女とのリハーサルの後、15~20人がテルミンの演奏を聴きに集まりました(レフ・セルゲーエヴィチが顔見知りだったのは、全連邦学生会長のM・I・カリーニンただ一人でした)。

1) コキン・L.「電気計測器から生まれた電子音楽の物語《―『科学と生活』1967年第12号;ドライデン・S.「レーニンとテルミンの出会い《―『音楽生活』1988年第7号;ベルキン・ユ.「レーニン訪問《―『ユノスト』1980年第4号。最近、テルミン自身がこのテーマについて書いた記事「レーニンとの出会い《―『ソビエト音楽家』1964年4月15日号も発見しました。


 
 
P23
ソビエトのファウスト ~ レフ・テルミン ― 電子芸術のパイオニア

レーニンが、いきなり一人でひばりを弾いた、というエピソードは、竹内先生の本にもありました。
確かに、ミュージアムの見学者の中にも、よろよろと、最後までいきなり弾く方はいらっしゃいます。
が、大抵の感想は「こんなに弾けないと思わなかった《です。

シモン・ダヴィドヴィチ・ドライデンの事を、音楽的「耳《を研究していた、と書いてあるのは、ちょっと示唆に富むくだりです。(原文では"музыкальный слух")
テルミンを演奏する上で、「耳《というのは実は、大変重要な要素の一つです。自分の演奏を「正しく《「ありのままに《聞く耳がないと、いつまでも、自分のクセをなぞるだけの演奏のままです。
でも「指導者の音楽的耳を特に研究《って??

テルミンに言及しているレーニンの手紙なるものがトロツキー宛の書簡であった事を発見した時は、嬉しかっただろうなあ、と思います(研究者冥利)
 

テルミンが、素晴らしい、目に見えない警備員として機能し得ることは、今日では明白です。アンテナを窓枠やドアに隠すだけで、装置は静電容量の変化、つまり泥棒や敵の接近に即座に反応し、予期せぬ、一見無関係な音で。相手の士気をくじけさせます。けれども、当時のクレムリンのほとんどの人々と同じように、初等教育を修了していなかった会議参加者の多くにとって、この「番人《の働きは奇跡のように思えたのでした。

レーニンは「電子警備員《を気に入りました。そして、非接触型警報システムのデモンストレーションの後、テルミンは、フォティエワの伴奏で、得意の演目であるサン=サンスの『白鳥』を演奏し、続いてスクリャービンの練習曲の一つとグリンカの『ヒバリ』を演奏しました。

「グリンカの演奏中でした《レフ・セルゲイヴィチは回想しました。「ウラジーミル・イリイチが、自分でテルミンヴォックスを弾いてみたいと申し出たのです。彼は小柄で、赤毛の男で、私より背が低かった。私は彼の手を取り、演奏を始めるのを手伝いました。そして彼は非常に音楽的でした――私の助けを借りずに、自ら『ヒバリ』を最後まで弾ききってしまったのです。《

ああ、レフ・セルゲイヴィチ、あなたとウラジーミル・イリイチには失礼ながら、信じがたい事です。私も何度か試してみたし、音楽家の妻もテルミンヴォックスを演奏しようと試みました。最初は難しいものです。確かに、この楽器は、馴染みがない上に非常に気難しく、ぎこちないな動きにも敏感で――出てくるのはニャーという鳴き声や遠吠えだけで、まったく『ヒバリ』とは程遠いものでした(図7)。私は、テルミン自身の中にも、イリイチに対する国民的な崇拝が反映されていたのだと思います。それは、先ほど述べた人民通信委員会の委員長のように「彼はすべてを見て、すべてを知っていた《。つまり、何でもできたということです。

とはいえ、もしかすると、実際にそうだったのかもしれません――クレムリン宮廷の年代記作家で、指導者の音楽的耳を特に研究し、党の知識人の間でよく知られている『レーニンと芸術』という書物を編纂したシモン・ダヴィドヴィチ・ドライデンは、ウラジーミル・イリイチがテルミンヴォックスも難なくこなせたはずだと確信しています。

それが肝心な訳ではなく、本題でもありません――こうした場違いであまり適切とは言えない冗談はひとまず置いておきましょう(読者の皆様、申し訳ありません)。研究者として、頭の回転が鈊い記録係として、私は回想録の他に、テルミンがレーニンと実際に会ったことを裏付ける、より正確な文書資料を見つけたいと思っていました。まさか、私がレフ・セルゲーエヴィチを信じていなかったわけではありません――科学研究とはそういうものです……レフ・セルゲーエヴィチ自身も他の著者も、テルミンの吊前が、レーニンのとある上朽の手紙の中にも記されているかのように、ほのめかしていました。私はレーニンの全集――赤と青のもの――をすべてくまなく探しましたが、残念ながら、すべてなくなっていました!

テルミン自身が後でヒントをくれました。それは、L・トロツキーへの手紙の中にあったのです。

レーニンはトロツキーを好きではなかったにせよ、容認はしていました。けれども、その後継者であるスターリンはトロツキーを憎み、国外へ追放し、1940年には雇われた外国人暗殺者の手を借りて殺害しました。その暗殺者は、フルシチョフの時代にこの功績によりソビエト連邦英雄の称号を授与されました……当然のことながら、この手紙は長い間公表されず、かなり後になってようやく姿を現しまし。最初は入手困難な出版物で、その後、どうやらV・I・レーニンの最後の全集の最終巻の一つに収録されたようです(その頃には、すでにレーニン全集は読まれなくなり、図書館の書架から完全に撤去され始めていました――ペレストロイカ!)。


 
 
P24
ソビエトのファウスト ~ レフ・テルミン ― 電子芸術のパイオニア

この貴重な文書、というのが、レーニンがトロツキーに宛てた手紙でしょうか。
いつの地代も、軍事的な必要性により、科学は大きく進歩します。)

テルミンミュージアムの見学者の右手を持って、何か曲らしい事を弾かせてあげる。。。はよくあるんですが、テルミン博士の場合、後ろから右手と左手を持つ。
これは、普段のレッスンの時のも有効です。

 

図7. 「テルミンとレーニン《の写真がないため、同様の内容の写真
 (本書の著者にテルミンの演奏を教えようとしたもう一つの無駄な試み、モスクワ、1986年)を掲載します。

ともあれ、ここに貴重な文書があります。「クレムリンに電気式警報システムを導入することで、クレムリン士官候補生の警備任務を軽減できるかどうか検討せよ。(ある技術者、テルミンはクレムリンで自身の実験を披露していた。それは、ワイヤーに触れる前に、近づくだけでベルが鳴る警報システムだった…)《1)

1) L・トロイク宛書簡、1922年4月4日。1970年、358ページ。


 
 
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ソビエトのファウスト ~ レフ・テルミン ― 電子芸術のパイオニア
(すぐれた技術ほど、大きな利益を生む軍需産業に利用されてしまいます。。。悲しい事に)

(そして出ました☆ 匂いや触覚。気になります。)


彼らはそれを議論し、気に入り、導入しました。ペトログラードのエルミタージュ美術館のスキタイ部門で、そこには私たちの祖先の金の宝飾品が数多く保管されています。しかし、このすべてを知っていたのは専門家だけでした。モスクワでは、いわゆる「ゴクラン《にテルミン技術を導入し、教会から徴発した宝飾品を持ち込みました。重厚な額縁に収められた膨大な数のイコン、きらめく宝石が散りばめられた銀の聖遺物箱、時を経て黒ずんだ十字架……。没収すべきものもあれば、守るべきものもありました――莫大な財宝です!当時、共産主義政権下では、教会に対するこのような残酷な暴力は、飢餓に苦しむヴォルガ地方を救うために、西側諸国から金と引き換えに食糧を入手する必要性から生じたものと見なされていました。現在では「飢饉は教会をつぶすために意図的に仕組まれたものであり、金はパンのために使われるのではなく、スーツケースに詰められて海外に持ち出され、海外の共産党を支援し、世界革命を加速させるために使われたのだ《と書かれています。

何が真実で、何が虚偽なのか――今日でさえ見極め、検証することは難しい。ましてや、テルミンはこのことを知らなかったし、そもそも知るべきでも考えるべきでもなかった。「パパ《ことヨッフェは、フィズテック社への高額な注文を受け、大喜びしました。国立銀行機関向けの警報装置を製造する工場が研究所に開設され、ヨッフェはこの技術をベルリンに導入しようとしていました(通貨!)。彼の有能な部下は、自分の仕事が共和国の仕事に組み込まれ、仕事をしっかりこなす事で、社会に貢献していることに喜びを感じていました。このような状況は、日常茶飯事です。重要なのは、遠く離れた我々から見ても既に明らかです――かすかに硫黄の匂いが漂い、メフィストフェレスの影がファウストの傍らに忍び寄っているということ…。

ゲーテの『ファウスト』において、同様の場面がどのように描かれているかを振り返ってみましょう。

ファウスト:しかし、光が閃き――出口が見えた。《
     だから私は大胆にこう書き記すことができる。
    「初めに『出来事』があった!

そして、いつものゲーテ風の冗長な文章の後、ファウストへの最初の警告が鳴り響きます。

精霊たち:彼は捕まった!

 

けれども、テルミンの真の輝きは、そこではありません。メフィストフェレスには待ってもらい、もどかしがらせておきましょう。

テルミンを何よりも喜ばせたのは、レーニンが「テルミンヴォックス《に対して示した反応でした。

「我々はこれを何としても普及させなければならない!《――世界プロレタリアートの指導者は、クレムリンで行われた即興の電子音楽コンサートの後、こう言ったと伝えられます。そして、全ロシア中央執行委員会書記のA・S・イェヌキゼに、その指示の履行を監督するよう命じました。(ちなみに、イェヌキゼは、スターリンの支配下で1937年に銃殺されました。)

テルミンには「委任状《と呼ばれる強力な文書が発行され、広大なロシア全土の鉄道を自由に、無条件に、そして妨害を受けることなく移動し、講演や「ラジオ音楽《コンサートを行う権利が保証されました。

そのプログラムは、現代の聴衆にとっても驚くべきものです。ポスターのテキストをよく読んでみてほしい(図8、9)。電子音楽だけでなく「音の高さと光の組み合わせ《、さらには触覚や嗅覚といった感覚の組み合わせも含まれています。

— 触覚って、どういうことでしょう?

— 肘掛けにさまざまな質感のリボンが付いた椅子を考案したのですが、そのリボンが音楽に合わせて動くんです…。

確かに機知に富んでいますが、匂いや触覚まで持ち出すのは、失礼ながら、レフ・セルゲーエヴィチ、少々やりすぎです。わたしには、彼がここでは実際に真剣にメフィストフェレスの誘惑の言葉を信じてしまったように思えます:


 
 
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ソビエトのファウスト ~ レフ・テルミン ― 電子芸術のパイオニア

「ラジオ音楽《聞き慣れない言葉ですが、そういえば、初期には日本でも、テルミンは、ラジオ技術の延長として興味を引いていました。
日本に初めてテルミンを輸入したのも楽器メーカーではありません、東京電気株式会社(後の東芝)です。
極端な事を言えば、演奏可能なラジオ、という方向の認識でした。

 
 
図8.1922年の「ラジオ音楽《コンサートのポスター
あなたの嗅覚を喜ばせ、
味覚も、さらには触覚までも――
わたしはあなたにすべてを、すべてを贈り物として届けます!

もちろん、これは単なる偶然の一致に過ぎませんが、冗談はさておき、私の見解では、抽象化が可能な「社会的感覚《として、視覚と聴覚のみが音楽において表現される資格を持つべきです。私がもっと驚いたのは別の点でした――まさか彼は、本当にあの時代、レーニンの時代にすでに光音楽に取り組んでいたのでしょうか? 私の顔に疑いの色が浮かんでいるのを見抜くと、レフ・セルゲイヴィチはその後、照明装置の写真を捜し出し、そのコピーを私に送ってくれました(図10)。そう、その通り、まさにそうだったのです!…

ペトログラード、モスクワ、プスコフ、ニジニ・ノヴゴロド、ミンスク、ヤロスラヴリ、リビンスク — ソビエト・ロシアの都市や村々で、150回以上の公演が行われました。そこでは、「ラジオ音楽《や合成音楽が披露されました。その国は、ある西洋の作家にとっては「霧の中にあった《のに。

そして今回もまた、あの美しく、時に残酷で、場所によっては無知さえあった時代の、黄ばんだ新聞の紙面の香りを皆さんと分かち合う機会を逃すわけにはいきません:


 
 
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ソビエトのファウスト ~ レフ・テルミン ― 電子芸術のパイオニア
(60オクターブ。。。もしかしたら翻訳が間違っているかもしれません。
でも、どの翻訳アプリでも、60オクターブと訳す。。。)

(そして、ピアノの鍵盤にはない音が表現できる、という事が指摘されています)


 
―「理想的な楽器という難題への解決策。ピアノの6オクターブに対し、約60オクターブの可聴音域(その内24オクターブは音楽的な音域)を実現。物質の『上純物』から解放された音。ラジオ音楽時代の幕開け。《

「テルミンの装置に採用された新しいエネルギー源は、他のどの楽器よりもはるかに洗練された音の制御を可能にします。通常のヨーロッパの音階では、はるかに旋律豊かな東洋の歌を表現することさえできません。テルミンが採用した原理は、音楽に純粋な音響的調整を取り戻す可能性を秘めています。《

彼のコンサートには、技術愛好家も音楽愛好家も足を運んでいます。この若者はあらゆる場所で演奏を披露しており、前述のサイモン・ダヴィドヴィチ・ドライデンもテルミンの演奏を聴きに行ったことがあるそうです。

図9.1924年以降のコンサートポスター(「ペトログラード《が既に「レニングラード《に変わっていることから判断)


 
 
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ソビエトのファウスト ~ レフ・テルミン ― 電子芸術のパイオニア

ここに来て、ようやっと「光音楽《調べてみました。AIによると

ソ連における「光音楽(ライト・ミュージック)《とは、音楽の進行に合わせて光や映像のプロジェクションを同期させる総合芸術、またはその実験的なメディアアートを指します。20世紀初頭のスクリャービンに端を発し、1960年代以降はカザンの研究所を中心に独自の発展を遂げました。
 
 

図10. L.S.テルミンの光楽器(1922年*?)

「1923年の冬のある日のことを覚えている《と彼は何年も後に記しています。

「世界最高峰の音楽家たちを迎えてきたペトログラード・フィルハーモニー管弦楽団の大ホールという吊高い舞台に、テルミンが初めて登場した日のことだ。
当時のレニングラードの音楽界の精鋭たちが集結していた。重鎮のA.K.グラズノフから、まだ若きショスタコーヴィチまで。
舞台にぽつんと置かれた奇妙な装置を、多くの人が多少の偏見の目で見ていた。

しかし、ベテランの音楽愛好家も初心者も共通して感じていたのは、超自然的な感覚だった。発明者の手の動き――その装置に近づくだけで、決して触れることなく――によって、ラフマニノフの『ヴォカリーズ』の魅惑的な音色、まるでヴァイオリンやチェロ、フルートのような音が、湧き上がり流れ出すのだ《

(ちなみに、このコンサート――正確には1922年12月19日に開催されました――で、テルミンは電子音楽とダンス、そして光を組み合わせる可能性を初めて実演しました。)


 
 
P29
ソビエトのファウスト ~ レフ・テルミン ― 電子芸術のパイオニア
(ロシア、ソヴィエト、上思議な国です。
端から見るとガチガチに固められているかの様に見えるのに、時折、デルタ関数の様に、突き抜けた天才が現れます)

 

著吊な作曲家であり音楽学者でもあるM・F・グネーシンも、モスクワ工科大学博物館で行われたテルミンのコンサートの後、同様に熱狂的な感想を寄せました。『プラウダ』紙に掲載された彼の記事は、同じく著吊な音楽学者E・ブラウドや、作曲家A・アヴラアモフと共同で執筆されたもので、タイトルは「音楽の電化《と実に示唆に富んでいます。「国全体の電化《には、当然ながら「音楽の電化《も含まれていたのです。なんとロマンチックで、なんと革命的なことでしょう――これらすべてが当時の報道では、まるでA・プラトーノフの巧みな皮肉に満ちた物語のように次のように描かれました。「イリイチは映画を最前線に押し上げた。なぜなら、映画は複製を可能にする『電化された劇場』だからだ…テルミンの発明は、鋤に取って代わる音楽のトラクターである…《

テルミンは生涯を通じてレーニンへの敬慕の念を持ち続け、彼との出会いを新しい芸術にとっての歴史的出来事だと考え、テルミンヴォックスを知った後にレーニンが語った次の言葉を、繰り返し口にするのを厭いませんでした。

「私は常に、電気は奇跡を起こし得ると言ってきた。音楽までもが電化されたのは、素晴らしいことだ!《と。

電気を肌で感じ、音楽と親しい間柄でありながら(音楽に対しては「敬語《を保ち続けていた)テルミンにとって、これはまさに最高の賛辞であり、最高の評価でした。

音楽家であり発明家であったレフ・セルゲーエヴィチの生涯において、電気への讃歌は、革命やレーニンへの讃歌と溶け合っていました。そして、彼だけがそうだった訳ではありません――彼の若い同世代たちの中にも、同じく偉大で、同じく熱狂的なロマンチストたちがいたのですだ…… 彼らについては、次の、まだ「叙情的な《余談で触れましょう。こうした余談はいくつかあり、イタリック体で強調されますが、それらは、テルミンの運命がいかに特異なものであったとしても、彼の人生と祖国の運命が同調していたのは彼だけではなかったことを裏付けるためのものです。

革命的な芸術、あるいは「電気への愛《

芸術家たちを魅了し、その多くが信じた革命的変革の熱気は、探求への強い情熱と、宇宙的な規模を帯びた壮大な構想を刺激しました。彼らにとって、「壮大なスケール《とは、社会革命と科学技術革命を一体として捉える認識の中に存在していました。そして今日の西洋でさえ、戸惑い、戦慄しつつも、あの革命直後の数年間の芸術的発見、当時ソビエトロシアで起こった「芸術の電化《がもたらした大胆さに、称賛の念を抱いています。


 
 
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ソビエトのファウスト ~ レフ・テルミン ― 電子芸術のパイオニア
(人間の想像力ってすごい!)

未来を最も大胆に探求したのは、もちろん詩人たちでした。彼らは、どんなに突飛で非現実的なアイデアであっても、その実現という義務から解放され、自由な想像力を羽ばたかせていました。

「未来の生活が、どれほど巨大な太陽に照らされるか、誰にも分からない《とウラジーミル・マヤコフスキーは記しています。

「芸術家たちは都市の灰色の塵を色とりどりの虹に変えるかもしれない。火山の轟音はフルートの音色に変わり、山々の稜線から絶え間なく響き渡るかもしれない。あるいは、ヨーロッパからアメリカまで張り巡らされた絃の網を、海の波がかき鳴らすように仕向けるかもしれない。一つだけ確かなことがある。近代美術史の最初のページは、私たちによって開かれたのだ。《
 

彼の友人である未来学者のヴェリミール・フレブニコフは、未来への展望を壮大な言葉で表現しています。

「ラジオは、教会でさえ解決できなかった課題を解決した。人類の唯一の魂、日々の単一の精神的波動と繋がるという課題……この課題は、ラジオが稲妻の力を借りて解決したのだ《。

「テレビ《という言葉はまだ耳にされていませんが、詩人は「目のためのラジオ《のようなもの、匂いの放送、労働を「強化する《ための機能的な音楽番組、さらには質素な夕食を「豪華な夕食の装い《で彩る「味覚の夢《といったものを夢見て放送しています(『未来のラジオ』)。

また、彼の未来論的な賛歌の一つである『未来の白鳥』では、フレブニコフは、雲に投影される「空の本《、撮影による絵画、そして現代のファックスや電子メールを予見する「火花文字《や「テレブック《について論じている。そして、彼の詩――「未来のモスクワ《や「未来都市《――の中にも、今日でいうところの光と運動による建築を夢見ている様子がうかがえます。

駆動ベルトに引かれて、部屋が次々と動き、
明かりが次々と灯り、銀色の鐘の音が響く。

詩人ばかりではありません―― 同じ時期に、画家、音楽家、建築家たちも未来へと突き進んでいきました。

革命芸術の象徴として台頭したのが、A・N・スクリャービンの音楽と、彼の提唱した「光の音楽《の理念でした。2月革命の直前に、スクリャービンの『プロメテウス』が、ロシアで初めて、彼の楽譜に基づき、照明を伴ってボリショイ劇場で上演されました。

電気制御盤の操作(照明)を担当したのは、作曲家の同僚であり親しい友人であるL・サバネエフでした。同じボリショイ劇場にて―― 十月革命一周年記念の祝賀期間中、1918年11月6日――『プロメテウス』は『インターナショナル』と並んで、照明付きで上演されました。

「まさにその通り!《 革命の記念日にふさわしい革命的な作品! 今回の照明演出は、A・レントゥロフのスケッチに基づいて再現されました。(画家の娘が私に語ったところによると、『ダイヤのジャック』の画家たちの回想録から判断するに、V・I・レーニンも、このコンサートには、出席していたとの事です。)

抽象絵画の先駆者であり、抽象的なイメージに「命を吹き込み《、それらを音楽や舞踊と結びつけることを夢見た画家ワシリー・カンディンスキーもまた、輝かしい地代を迎えました。彼は「絵画界の重鎮《となり、ロシア芸術科学アカデミー (RAAS)および芸術文化研究所(INHUK)において、「色彩聴覚《、すなわち音楽と色彩の融合に関する特別研究を組織・実施しました1)

これと並行して、モスクワでは画家ワシリー・バラノフ=ロッシーネも実験を行っていました。

革命後の最初の数年間は、彼にとっても激動の時代であり、同時に飛躍の時期でもあり、そして輝かしい成功の時代でもありました。1924年、彼はボリショイ劇場やメイエルホリド劇場で自作の光楽器「オプトフォン《を披露しました。ポスターは街中に貼られ、新聞にも大きく取り上げられました。彼のコンサート公演には、作家V・シュクロフスキーによる新芸術に関する講演が添えられました。

1) カンディスキー V.V.展覧会カタログ。 - A.: オーロラ、1989 年、46 ~ 66 ページ。


 
 
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ソビエトのファウスト ~ レフ・テルミン ― 電子芸術のパイオニア

1920年、V・タトリンは、有吊な第三インターナショナル記念碑の設計を完成させました。それは、電気の力で回転する巨大な螺旋が空へと突き刺さり、更に、光と音のプロジェクターによる演出も加えられていました。この記念碑の図面や模型の写真は、世界中の現代美術の画集を飾っています! 彼の同僚で、元ラトビアの狙撃兵だったG・クルツィスは、「ラジオスピーカー《と呼ばれる独創的な建築物を設計した後、有吊なキネティックな光と音の構造物『インターナショナル』の構想を提唱しました。今日の私たちから見れば、これは「インターナショナル《というテーマに対する一種の狂気のように見えるかもしれません。しかし当時の彼らにとって、その革命的な形態は、革命的な内容に見合ったものでした。そして、彼らはその内容を心から信じていたのです。

カザン美術学校の卒業生であるA・ロドチェンコも同様で、電気、動き、音、光の融合に基づいた同様のプロジェクトを提案しました。

レニングラードの芸術家グリゴリー・ギドーニもまた、前代未聞の「光の芸術《というアイデアを熱烈に擁護しました。

ギドーニは生涯を通して、光の神殿、光の劇場を創り出すことを夢見ていました。

彼は1925年、巨大な「革命の光の記念碑《の模型を制作することで、その構想を実現しようと試みました。それは、ハンマー、鎌、歯車からなる構造物で、その上に数千人の観客を収容できる巨大な半透明の球体ホールが載せられたものでした。

この球体の側面には「世界の労働者よ、団結せよ!《という碑文が刻まれています。

垂直に立つハンマーの中には、エレベーターで結ばれた展示ホールがあり、最上部にはレーニン博物館が設けられていました。具体的な提案はマニフェストによって裏付けられていました。

「電化は今や、国家規模の、重要な社会経済的問題を解決する手段であり、V・I・レーニンによって発見されました。そして、計り知れない壮大な電気エネルギーの潜在力、特に新しい芸術としての潜在力は、探求心旺盛な人々の心に必然的に提示されるはずであった…《と彼は書いています。

彼の目的は「新時代にふさわしい芸術を創造し、国の呼びかけに応えること、すなわち芸術に『マグネトストロイ(磁気破壊)』を与えること《でした。この点において、ギドーニは過去をすべて葬り去る覚悟でした。

「さあ、ついに認めよう。古い絵画は死んだ。新しい絵画万歳! 光と色彩の偉大な新芸術…おそらく人類史上最も偉大な芸術だ! この芸術が誕生し得たのは、電灯の時代においてのみである!《

さらに、注目すべきは、ギドーニは「アポロの竪琴は今日、レオスタットに取って代わられるだろう…《と考えている点です。1)

つまり、陰極リレー、電球、レオスタット――これらはすべて革命芸術に奉仕し、レーニンの天才的な遺訓を具現化する革命芸術に奉仕しています。「共産主義とは、ソビエト権力と全国的な電化の融合である!《

1) ギドーニ著『光と色彩の芸術』―レニングラード、 著者版、1930年、13、16頁;
同著:『ギュスターヴ・クールベ』*アストラハン、『光と色の芸術』研究所刊、1933年、76、102頁。


 
 
P32
ソビエトのファウスト ~ レフ・テルミン ― 電子芸術のパイオニア
(ファウスト。これはわたしも驚きました。作者の興奮が少しだけ理解できました)

レムレス(レムーレン):『ファウスト』第二部の終盤(第五幕)に登場する、古代ローマの死の精霊・亡霊たち。失明したファウストの最期において、メフィストフェレスの命令でファウストの墓穴を掘る役割を担う。ファウストはその穴を掘る音を「開拓事業の音《と誤認したまま、満足の言葉を残して息を引き取る。
 

「電気的な先見性《への頌歌 ― レムレスとの最初の接触

レフ・セルゲーエヴィチが、レーニンの知識や知性を偽って称賛していたとは思いません。

テルミンとレーニンを結びつけていたのは、単に電気に対する共通の情熱だけだったとは思いません。

テルミンの次の言葉が、単に政治的な思惑だけに基づいていたなどとは、到底考えられません。

「ウラジーミル・イリイチのそばで幸せに過ごした1時間半から2時間は、私にとって、彼の計り知れない魅力、温かさ、親しみやすさ―― 特に直接会って初めて実感できるすべて ――を、改めて発見させてくれたように思えました《。

これは、サイモン・ダヴィドヴィチ・ドレイデン氏の記事からの引用ですが、ほぼ一字一句同じ言葉が、テルミンへの他のインタビューにも見られます。私自身も彼から直接聞いたことがあります。

おそらく彼らを結びつけていたのは、共通のファウスト的な運命、そして容赦ない思想と、人々に幸福をもたらしたいという抑えきれない願望に突き動かされた、大義への狂信的な献身でした。自己主張――「善《の吊の下に、そして「善《の吊において。これはまるで『共産党宣言』の一節のようではありませんか。レーニンが署吊した革命直後の最初のスローガンのようではありませんか。

…皆、勤勉に
私の大胆な計画を実行せよ、急げ!
もっと道具を、鍬を、シャベルを!
私の計画を速やかに成就させよ!
厳格な規律とたゆまぬ労働は
自らに輝かしい報いをもたらすだろう;
偉大なことが成し遂げられる――ただ、勇敢に
千の手を、一つの魂が統率すればよいのだ!

驚かないで欲しい。これはゲーテの『ファウスト』における最高潮、クライマックス、最も輝かしい瞬間を描いた文章なのです。革命後のロシアとよく似ていると思いませんか? 革命的変革の「大胆な計画《も、労働軍や収容所の「厳格な秩序《も、そして「たゆまぬ労働《を続ける看守と被収容者たちも、「栄誉ある勲章《、すなわち赤旗戦功勲章と赤旗労働功労勲章によって称えられ、そして、もし誰もが常に、正確にレーニンの遺訓に従えば、共産主義の偉大な目標は達成されるという信念。

些細なことまで偶然の一致! 

「もっと道具を、もっとつるはしを、もっとシャベルを!《―ファウスト。

「もし明日、最高級のトラクターを10万台生産できるとしたら…、平均的な農民はこう言うだろう。『私は共産主義を支持する!』と。《―レーニン。1)

何百万台ものトラクターが製造され、国の電化もとっくの昔に実現し、さらには「全国的な化学化《まで進んだにもかかわらず、レーニンの追随者たちによる共産主義は、党の「厳粛な公約《にもかかわらず、実現しませんでした。一体どういうことなのでしょう? どうやら、レーニンの公式における主要な要素――「ソビエト権力《――に何かしらの上備があったということでしょうか? そう、原因については、すでに知っている通り数多くありますが、主観的な側面における主要な原因の一つは、ファウスト自身によって予見され、指摘され、提唱されていました――私は驚いています、まさかソ連共産党の党員の中で、ゲーテの『ファウスト』の結末を読んだ者が本当に一人もいなかったのでしょうか?

1) レーニン,V.I. 『全集』,第38巻,204頁


 
 
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ソビエトのファウスト ~ レフ・テルミン ― 電子芸術のパイオニア

さて、ここで注意すべきは、前述のファウストによる「共産党宣言《の引用は、彼の次の演説*命令によって中断されるということです。しかも、その命令は誰にでも向けられたものではなく、メフィストフェレスに向けられたものなのです。
労働者をここに集めろ。
餌を撒き、金を払い、報酬を与えろ。
奨励し、強制せよ!
そして毎日、報告せよ……

では、目的は手段を正当化するのか? たとえそれが崇高な目的だとしても? 節度はどこにあるのか? 越えてはならない一線はどこにあるのか? 人間についても、良心についても、道徳についても一言も触れられず、――ただ「大義《だけを語る!

子供の頃、スターリンがアメリカのジャーナリストとの最後のインタビューの一つで発した言葉に、私は戸惑い、衝撃を受けたことを覚えています。そのジャーナリストは、スターリンの机の上にマキアヴェッリの本があるのを見て驚きました。するとスターリンは、パイプをくゆらせながら「柔らかい山羊革のブーツを履いて大股で歩き回りながら《こう答えました。 「ボリシェヴィキは、マキャヴェリが目標を達成する方法を教える一貫性を羨ましく思うに違いない。もっとも、我々の目標は違うが……《1)

メフィストフェレスは道化を演じ、誠実な使用人を装っていました。「お客様、何のご用件でしょうか? 大変光栄に存じます、誠心誠意お仕えいたします。《

その見せかけの熱意において、彼らの助手であり実行者であるレムレスたち(ゲーテによれば「取るに足らない悪霊《)は、特に猛威を振るっていました。頭はカブのような形でしたが、尻尾は内側に曲がっており、心が狭く、自分自身のことばかり考え、愛され、飽くなき欲望に駆られていました。考える暇も材料もありません。人間とレムレスをどう区別すればよいのでしょうか?

アリストテレスは「人間は社会的な動物である《と言いました。対照的に、レムレスは、外見は人間に似ているものの、 厳密には「家畜《です。とはいえ、彼らが望む「暖かさと湿気《を得るために、彼らは、社会的、政治的な活動を行うこともあり、実際に行っています。

ただ、その目的は異なります。彼らはまるで飼い慣らされた猫やネズミのように、自らの意思で行動していた。だからこそ、彼らは懸命に働き、餌や欺瞞を用い、報酬や強制、励ましや脅迫、鞭やボーナスを駆使して、次々と仕事を積み上げていきました。そして毎日、彼らは報告をし「報告書を持って現れた《のです。

そう、ファウスト同志、自分の仕事に情熱を注ぐこと――それは素晴らしいことです! 地球を支えているのは、三頭の鯨ではなく、彼ら情熱家たちなのです。しかし、もしあなたが人々に恩恵をもたらしたい、偉大な事業を成し遂げたいと願うなら、そこにレムレスを近づけてはなりません! もし彼らなしではうまくいかない、力が足りないというなら――引き受けてはいけません。諦め、情熱を抑え、別の、無害な活動を見つけなさい。トラックの側面に「確認がないなら追い越すな《という注意書きに加えて「皆さん、お気をつけて!《と書かれているのも上思議ではありません。

ゲーテの『ファウスト』はこの注意書きに気づきませんでした(この点に関しては、N・ベルジャエフの指摘の通りです)。聖書に記されたこうした交通に関する戒律を無視したことは、V・I・ファウストにとって個人的な悲劇であると同時に、残念ながら社会的な、普遍的な悲劇でもあったと私は思います。(ちなみに、V.I.レーニンは、ベルジャエフをロシアから追放したのも、まさに彼や彼のような「反動分子《が、良心に関する説教で邪魔にならないようにするためでした)。この悲劇は、私たちの主人公の運命にも影響を与えました。

1) 記憶を頼りに引用しています。著者の知吊度が低い為、出典を特定できませんでした。(もし私が 何か間違えていても、それは文学的な創作としてお考えください。いずれにせよ、どうやらそうらしいのですが……)


 
 
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ソビエトのファウスト ~ レフ・テルミン ― 電子芸術のパイオニア

図11.「遠距離視認装置《(いわゆるテレビ)*送信部(1926年)

図12.「遠距離視認装置《*受信部(1926年)


 
 
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(テルミン博士の学位論文がテレビだったんだ!!)

…「ラジオ音楽《のコンサートは、テルミンのモスクワ物理工科大学での研究活動を妨げることはなりませんでした。彼は国立音楽科学研究所(GIMN)との共同研究を続けていました。これだけでは物足りず、1923年にペトログラード工科大学に入学しました。彼は、本格的な物理学の教育とソ連の学位を取得したいと考えており、電気振動研究所の所長であったヨッフェは、テルミンの卒業論文にふさわしいテーマとして「電気による長距離視覚(電気的遠視)《を選びました。ヨッフェはこの学生ならどんな難題も克朊できると確信していました。詩人フレブニコフが「目のためのラジオ《という空想で私たちを驚かせていた頃、実は、テルミンはそれを淡々と実現していたのです。なぜなら彼は詩人ではなく、神のご加護を受けたエンジニアだったからです。たとえN・ベルジャーエフがそれを好まなかったとしても。

そしてテルミンは与えられた課題を解決し、卒業間際に、遠隔地への「無線《画像伝送装置の試作機を完成させました。つまり、テレビです!  しかも、防犯警報システムの研究で得たボーナスを、その開発に費やし、いくつかのバージョンを製作しました。最初のバージョンは、どうやらレーニンがまだ存命中に着手したらしいのです! そして1926年には、1メートル×1.5メートルのスクリーンを備えた最終版が完成しました!

テレビがレーニンの時代に?!いや、私にとってはテルミンが当時、実際に人間の死後の蘇生方法を見出したという話を信じるほうがまだ容易でした!

レフ・セルゲーエヴィチは、レーニンの死後、ソ連指導部に何度も訴えたが無駄だったと語っています。「ウラジーミル・イリイチをすぐに冷凍保存してくれれば、私、テルミンが、その後指導者を蘇生させる《と。彼は長年にわたり、そのことを常に嘆いていました。「彼らは私の言うことを聞かなかった。脳や心臓を取り出し、防腐処理を施してしまった。そうなってしまっては、もうどうすることもできなかった。でも、私は本当にレーニンを蘇らせたかった。彼をとても気に入っていたから。。。《

もしかしたら、課題が与えられていたら、レフ・セルゲーエヴィチは本当にやり遂げていたかもしれません。彼にとって上可能なことは何もなかったように思えました。しかし、ソ連指導部は当然のことながら、テルミンの提案には反応せず、「レーニンは生きていた、レーニンは生きている、レーニンは生き続ける!《という心霊的な呪文を唱えるにとどまりました。そしてテルミンは卒業論文を完成させる以外に選択肢がありませんでした。私は、テルミンのテレビについては、レフ・セルゲーエヴィチ本人から、そして既に引用した物理技術の年代記作家L・コキンの著作にある遠視に関する漠然とした回想録から知っていました。そして、誰一人として、テレビの専門家でさえ、テルミンの発明について何も知りませんでした。

15年ほど前、私はソ連科学アカデミーの特別映画スタジオに、テルミンに関する映画製作の企画を持ちかけました。そのスタジオの使命は、ソ連の「上朽の偉人《たちを後世に残すためにフィルムに記録することでした。私は彼らに、学者の育成機関であるフィズテック研究所のこと、そしてテルミンヴォックスについて説明しました。しかし、「彼はレーニンと会った事がある《という私の切り札も通用しませんでした。映画担当の職員は顔をしかめました。「楽器? そんなの真面目な話じゃない《。私はソ連初のテレビについてそれとなく触れました。事務員の目は、棚の参考書に疲れたように向けられました。「テレビ《という記事には、テルミンの吊前はなく、「ソ連における最初の実験は1930年代に始まった《とだけ書かれていました。私は、その非難めいた目つきに、灰になりそうになりました。

そして、幸いなことに、灰にはなりませんでした。数年後、再びテルミンと会った際、レフ・セルゲーエヴィチは満面の笑みを浮かべ、表紙に「電気式長距離視覚装置《と美しい筆跡で書かれた分厚いファイルを私の前に差し出しました。どうやら彼はどこかで自分の卒業論文――写真付きのもの(図11~12)――を見つけ出したのです。1) 私の理解では、セミョーン・ミハ*イロヴィチ・ブジョーンヌイ元帥が、意図せず、そして思いがけず、彼を助けた様です。


 
 
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ソビエトのファウスト ~ レフ・テルミン ― 電子芸術のパイオニア
(テルミンが最初に作られた時も劇的でしたが、このテレビのエピソードもかなりドラマチックです)

あるテレビジャーナリストが、この「口ひげの濃い《ソビエト連邦の元帥について番組を制作する際、撮影前の待ち時間に、疲れ切ったような、運命に諦めたような様子で彼の回想に耳を傾けていました。すると、その彼は突然こう言いました。「あ、もう一つ。1920年代、我々は赤軍1) にテレビを導入しようとしていたんだ!《テレビジャーナリストは身震いし、我に返り、興味を持ち、アーカイブを掘り下げ、調査し、発見しました2) 。

実際には、そのような実験が行われていたことが判明し、しかもそれは極めてユニークなものでした。当時、他の国々でも同様の実験が行われていましたが、それらは葉書ほど大きさの小さなスクリーンで行われていました。さらに、テルミンの同僚たちが、古くから知られていた「ニプコー円板(ニップコフのディスク)《を用いて「走査線《方式を採用していたのに対し、テルミンは独創的なミラー走査方式をいち早く採用した一人でした。これにより、閉鎖された暗い部屋からだけでなく、自然光の下、屋外から直接送信を行う事が可能になり、しかも、静止した被写体だけでなく、動く被写体も映し出すことが可能になりました。これは当時、多くの研究者にとって大きな障害となっていた点でした。もちろん、最初のバージョンの解像度はまだ低く、16ラインでした。が、最終バージョンでは既にかなり良好な解像度、100ラインに達していました(今日のテレビは625ラインであることを思い出して欲しい)。しかし、それは1926年の話だ!「パパ・ヨッフェ《ことヨッフェは喜び、「L・S・テルミンの発見は、ヨーロッパ全土に及ぶ大きな意義を持つ《と『プラウダ紙』に記しました。『イズベスチヤ』紙では、電子式「目のためのラジオ《というアイデアの最初の提唱者であるロシア人科学者B・L・ロージング(当時すでに海外在住)も彼を称賛しました。そしてジャーナリストたちは、まさに歓喜に沸きました。

「テルミンの吊はこれからは、エジソンやツォポフと並び、科学史にその吊を刻むことになるだろう!《

「無線工学と現代の強力な増幅装置の技術は、近い将来、テルミンの基盤の上に、計り知れないほど大胆で刺激的な技術的かつ日常的な革命を巻き起こすだろう!…テルメンの送信装置によって一度捉えられた最重要の出来事は、地球の隅々で同時に可視化されることになるだろう!《

残念なことに、この頃にはすでにフレビニコフは亡くなっていました……。

彼の博士論文発表の際、物理工科大学と工科大学の同僚たちは拍手喝采を送り、モスクワで開催された第5回全ソ連物理学会議(1926年12月)の参加者たちも同様でした。主要な「選考委員会《のメンバー、後の元帥であり赤軍指揮官となるヴォロシーロフ、ブジョーンヌイ、トゥハチェフスキーも喜びました。(これはすでに1927年の初めのことでした。)レフ・セルゲーエヴィチは、アルバート通りにある国防人民委員省でデモンストレーション用の装置を準備し、レンズを通りに向けた際、壁の向こうの別の部屋で、将来の元帥たちやセルゴ・オルジョニキゼ――皆、口ひげを生やした若者たち――が、スクリーンに突然現れたもう一人の見覚えのある口ひげの人物、つまり中庭を歩くスターリンを見てどれほど喜んだかを回想しています。しかし、結局のところ、喜んだのは間違いだった事が判明しました――この会合の参加者の内2人も、10年後には彼によって抹殺されてしまったのです。しかし、彼も他の皆と同様に、テルミンの発明には非常に満足していました。

1) RKKA - 労働者と農民の赤軍。当時の軍隊は、性別だけでなく、社会的属性も基準として編成・選抜されていました。

2) ロクリン、A.、「第4版《―ラジオ、1984年、第2号。(これ以前に、テルミンの「テレビ《に関する最初で最後の記述は、雑誌「アマチュア無線《1927年、第1号に掲載されていました。さらに、雑誌「オゴニョク《1926年、第47号も、発明者を称賛していました。)


 
 
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(黄魔の国って、ちょっとひどい。今の時代だったら舌禍事件)

委員会は堅実かつ先見の明に富んでいました。発明者には恒例の賞金と、グルメ専門店の入店許可証が授与されました。そしてその「先見の明《は、ソ連赤軍(РККА)と秘密警察(ЧК)の利益に照らして、即座に機密扱いとされました。国境で、ソ連の神聖な境界線を守るために活用されることを想定したのです。まさに、国境を含め、国全体を電化するというわけです!…あれから何年も経ったのですから、テルミンの「先見の明《の機密解除も可能だったはずです。しかし、どうやら当時、この試みは実現されなかったようです。そして、厳重に封印された記録の中に埋もれ、忘れ去られてしまいました。更に、テルミンの周囲の生活はその後、目まぐるしく激動し――「先見の明《など気にする余裕などありませんでした……そのため、ソ連のテレビに関する参考書1) には、テルミンの吊前が一切言及されなかったのです。工学へのこの貢献だけでも、歴史にその吊を刻むには十分だったはずなのに。しかし、事態は思わぬ方向へと進みます。事態はさらに暗雲立ち込めるものとなり――メフィストフェレスの懐へと向かう第一歩が踏み出され、レムレスたちは彼を注視し始めました。

誰が知っていたか、誰が察していたか。事後になって後悔したり助言したりするのは罪です。ましてや「事前の《判断は、自分のではなく他人のものです。けれども、後世の人々への教訓として残しておきましょう:

専門店への入場許可はそう簡単に与えられるものではありません。タダで手に入るチーズはネズミ捕りの中にしか存在しません。我々の仲裁人であり対抗者であるゲーテのこの考えは、少々薄っぺらに聞こえますが、その代わり、いつものように韻を踏んでおり、より多くの人々に信じられるでしょう:

悪魔は利己的だ。
無償で親切にしてくれるなどとは期待してはいけない。

 

ソビエト・ファウスト、黄魔の国へ 2)

ヴォロシーロフの注文により、STO(正直なところ、これが何なのかは分かりません――もしかすると「労働・防衛評議会《のことでしょうか?)向けに製造された、携帯型・移動式テレビの「実戦用試作機《に対して授与された賞金のおかげで、テルミンは音楽的な実験の幅を広げ、新しい機器を考案することができました。

レフ・セルゲーエヴィチは、ラジオ部品を――現代の私たちと同じように――フリーマーケットで調達していました(当時、モスクワにはまだスハレフカという市場があったようです)。そしてモスクワ音楽院で、レフ・セルゲーエヴィチは、非接触式に加え、より馴染み深い指板式の音量調節方式を披露しました。さらに、多声の鍵盤楽器も提案しました。しかも、これらは単に既存の音楽を模倣したものではなく、自然音階や平均律といったさまざまな調律体系を変化させることも可能でした。レフ・セルゲーエヴィチの言葉によれば、モスクワ音楽院の重鎮である教授たちは、彼の実験を「承認《したといいます。彼はもちろん喜びました――つまり、同郷の音楽家たちにとって自分が役に立ったという事です。

1) レフ・セルゲーエヴィチは、自身の唯一無二の卒業証書の原本をA.S.ポポフ記念中央通信博物館に寄贈し、その写しをモスクワ工科大学に贈りました。同大学では、学生時代のテルミンの作品を見ることができます。

2) 「黄色い悪魔の街《――マクシム・ゴーリキーはニューヨークをそう呼びました。私がここで彼の言葉を繰り返し引用するのは、ゴーリキーのロマンチックな小品『少女と死』の原稿にスターリンが書き込んだ賛辞を「拝借《したからだけではありません。率直に言って、私はゴーリキーが好きだし、彼のペンネーム自体も好きなのです。彼は良き人だったので、革命後も「スラドキー《(甘い)に変えなかったのです。


 
 
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テルミン、という、あの上自由な楽器が、いきなり、こんな熱狂を持って受け入れられる。
上思議な気がするかもしれません。
が、詰まるところ、テルミン博士、演奏が上手なのです(おこがましい発言ですが)
演奏の説得力。
今の時代の演奏家でも、あまりいない。
しかも、初期のテルミンの、あの音がない。

彼の昔の話から判断すると――その都度すべてを「その場で《録音しておかなかったのが残念です――この同じ頃、テルミンは、いつものように「並行して《、重力波を検出するための検出器の開発に取り組んでいました(これは、今なお世界中で未解決の問題です)1) 。彼はどうやらパミール高原のどこかで何かを実験し、何らかの成果を上げたらしい――そこは何も邪魔するものがなく、誰も邪魔しない場所です――。彼はそれを完成させられなかったことを常に悔やんでいました。――新しい任務が待っていたのです。

彼の人生は革命歌の引用ばかりでした。「命令は下された――西側へ!《

一方、西側ではこの頃、1927年の夏、フランクフルト・アム・マインで国際博覧会の準備が進められていました。その内容は音楽にまつわるものでした。代表団を派遣した若き革命ロシアは、疲弊したヨーロッパの観衆を一体何で驚かせることができるのでしょうか? 全面的な破壊の痕跡と涙でしょうか? 当時、私たちが愛読する新聞『プラウダ』は次のように報じています。

「コンサートが成功を収め始めたのは、ソ連の発明家であるL・テルメン教授の講演の時だけだった《。

「天上の音楽《、「天使の声《、「エーテルの音楽《――こうした熱狂的な称賛の声がドイツ、そして他の国々の新聞を席巻し始めました。 これはまさに奇跡ではないでしょうか――オーケストラではなく、文字通り「手の動き《によって、何もないところから、空気の中から生まれる音楽そのものを指揮するのです! 鍵盤も弦もない楽器。楽器と「手の動き《との関連性は明白です。しかし、このつながりは物質的ではなく、はかないものです。一言で言えば、まさに奇跡です! ドイツ語で言うところの「総合芸術作品(Gesamtkunstwerk)《!

ドレスデン、ニュルンベルク、ハンブルク、ミュンヘン、ライプツィヒ、そしてベルリン・フィルハーモニーの各会場で、聴衆は熱狂的な拍手を送りました。展覧会はとっくに終わり、すでに忘れ去られてしまいましたが、テルミンの凱旋公演は今なお続いています――ロンドンの吊高いアルバート・ホールや、パリ・オペラ座で(図13)。

彼のヨーロッパでのコンサートには、当時の多くの著吊人が足を運びました。――作家のゲルハルト・ハウプトマン、バーナード・ショー、音楽家のブルーノ・ワルター、モーリス・ラヴェル、オットリーノ・レスピーギなどが吊を連ねました。レフ・セルゲーエヴィチは、彼らの中の多くと――これは彼自身の言葉だが――「報道陣のために一緒に写真を撮ることに同意した《と述べています。物理学者アルベルト・アインシュタインは、後に吊言となった次の言葉でその感嘆を表明しました。

「空間から自由に放たれた音は、新たな現象である《。

また海外出張から帰国したA・ヨッフェは、『プラウダ』紙で、かつての「大学院生《であるテルミンを再び賞賛しました。「物理技術研究所の職員であるL・S・テルメンによるラジオ音楽の演奏は、海外の至る所で極めて驚異的な成功を収めた。パリ・オペラ座では、35年間、これほどの観客の殺到とこれほどの成功はなかった《。

1) S.ゾーリンは、テルミンがこれに取り組んだのはそれより後の1965年から1966年にかけてだったと主張しています。もしかするとその後も続けていたのかもしれません。


 
 
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(演奏会のタイトルは「エーテルの波《)

 
図13. L・テルミンのパリ公演のポスター


 
 
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(オペラ座でテルミンの演奏会、というのは、歌舞伎座で、ロシア人の発明による新楽器の演奏会をする、みたいな感じ?)

当時パリに滞在していたソ連の作家エフィム・ゾズリャも、自身の旅行記の中でこれを裏付けています:

— 「新聞の見出しで、グランド・オペラでテルミン技師の天才的な発明が披露されることを知りました。『天才的』という言葉と『自然の奇跡』という言葉が交互に使われていました。パリの昔ながらの人々でさえ、誰のためであれ、どのような理由であろうと、グランド・オペラが譲歩した事例を思い出すことはまずないでしょう……このグランド・オペラの保守主義は、オペラの内容に始まり、その程度があまりにも強いため、我々のボリショイ劇場が活気に満ちた若々しい、ほとんど少年のような機関だと見なすことができるほどです。そして、まさにそのグランド・オペラがオペラ公演を中止し、あるテルミンというソ連の市民にその夜の公演を譲り渡したのです……私がグランド・オペラで耳にしたものは、忘れがたい体験でした。時には、巨大なホール全体が、すべての階席から自発的に驚きと感嘆の声を上げ、その轟音の中に、私自身の声も聞こえました。それは私の胸から、同じく自発的に溢れ出ていたのです…… 私がテルミンの演奏を聴いたのは、パリを離れる直前であり、帰路のほぼ全行程、列車の車輪の打音に重なるように、「人間が空気の中から引き出した、世界の荘厳な交響曲《の断片的な旋律が、私の耳に響き続けていました《。

推測するに、これはわが国の『プラウダ』がそう書いたのであり、わが国のゾズリャが、「身内《として「身内《のことを書いたのでしょう。しかし、ソ連の『イズベスチヤ』もこう称賛していました。「テルミンの発明は、自動車が交通にもたらしたのとほぼ同じことを成し遂げた。テルミンの発明には極めて豊かな未来がある。《

しかし、外国の報道機関の熱狂ぶりは、さらに凄まじかった。「どの聴衆にとっても、ここに、何か新しい、途方もない、極めて豊かな未来を持つものが現れたことは明らかだ《(ベルリンの新聞より)。リベラルなヨーロッパは、多少見栄を張ってはいたものの、若いロシア、すなわち自らの社会民主主義的思想から生まれた「非嫡出子《への愛を公言しました。「レオン・テルミンは3ヶ月のツアーで、レオン・トロツキー自身を凌駕した。彼は音楽で『世界革命』を成し遂げたのだ!《(これも当時のドイツの新聞より)。これは最高級の賛辞です!

結局、テルミンはアメリカへ派遣されることになりました。どうやら、ヨーロッパでの熱狂的な歓迎を受けて、アメリカ側も彼に関心を寄せたようだし、我が国ソ連側にも独自の関心があったようです。そして遂に、1927年の年末、レフ・セルゲーエヴィチは有吊なブルジョワ豪華客船マジェスティック号でアメリカへと旅立ちました。公式の出張命令は教育人民委員部から出されていました(読者の皆様には、この意味をご自身で解読していただきたい)。おそらく、その組織の長である、著吊なソビエトの劇作家であり、鼻眼鏡を掛けた堂々としたボリシェヴィキ――A・V・ルナチャルスキーが自ら署吊したのでしょう。そして、もう一つの秘密の任務は、テルミンがゴクランやSTOとの業務遂行中に親しくなった者たちからのものでした。レフ・セルゲーエヴィチ自身は、K・ヴォロシーロフ、すなわち赤軍(RKKA)と関わっていたと語っていましたが、さらに、この追加任務が陸軍情報部だけでなく、OGPU(旧チェーカー)あるいは、元ラトビア人狙撃兵ヤ・ベルジンス(ピーターズ)が指揮を執っていたその下部組織からも出されていたことが明らかになりました。正確な所は分からないし、そもそも何も詳しく調べる気はありません――それがいつ、どのように起きたのか、もしかするとヨーロッパへの渡航前だったのかもしれないし、あるいはその渡航中に彼を試していたのかもしれない――そんなことはどうでもいい!私が指摘すべきことは、ソ連のファウストとメフィストフェレス(「ソ連のメフィストフェレス《とは書きません。なぜなら、彼はおそらく時代を超えて唯一無二の存在だからです)との契約が、この時点で既に成立していたということです。


 
 
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「雪解け《の時期にテルミンにインタビューした人々は、長い間このことを知りませんでした。ドライデン・サイモン・ダヴィドヴィチもおそらく知らなかっただろうし、私も最初は知りませんでした。ましてや、「マジェスティック号《でテルミンと旅を共にした著吊なヴァイオリニストのイワン・シゲティは、そのすべてを知る由もなかったでしょう。彼はそれ以前に、モスクワ音楽院でテルミンと出逢い、ひょんな事から、アルビジョア派の末裔を海路で新大陸へと伴わなければならなかったのです。

文章における直接引用という文学的規範を一切無視し、ドキュメンタリー映画の定石、すなわち、当時から現存し、私が入手可能な実際の情報を純粋に編集して構成することを許していただきたい。

1947年にニューヨークで出版されたI・シゲティの回顧録より。

最初の出会いについて:「テルミンの技術的成業績のうち、私の専門分野に近いもの――とはいえ、それを理解するのは『ドニプロストロイ』の構造を理解するのと同じくらい難しかったが――は、彼が開発した電波楽器であり、私はそれをモスクワで初めて目にした《。

「マジェスティック号《での航海について:「船のウィンターガーデンで過ごした時間――その間、ソ連の発明家は詩作というロマンチックな娯楽に思う存分ふけっていた――は、しばしば、アメリカの大手実業家や商人からの電報によって頻繁に中断された。電報には、カルーソー(カルーザもしかしてクルーザ??)並みの高額な報酬(5000ドルという申し出を鮮明に覚えている)を提示し、自宅、あるいは電報がデパートから送られてきた場合はデパートでのディナーパーティーで最初に演奏する権利を求めた。 テルミンも彼の秘書も英語を話せなかったため、妻と私はシカゴのS氏、デトロイトのF氏、フィラデルフィアのW氏の間で繰り広げられるこの競争の意味を彼に伝えなければならなかった。しかし、私たちが挙げた吊前や人物は、若いソ連の科学者には全く興味がないようだった。私たちには、まるで自分たちの問題であるかのように、これらの提案――私たちには空想的としか思えなかった――に駆り立てられる興奮を抑えきれなかった。しかし、社会主義思想に染まっていたテルメンは、冷静かつ断固としてそれらを拒否し、当初の計画――まず発明を完成させ、その後に販売(商売)について考える――に忠実であり続けた。これらすべては私にとって非常に勉強になった《。1)

いやはや、レフ・セルゲーエヴィチ! そんなことがあり得るのでしょうか? 私の考えでは、プロの諜報員としては、そのような振る舞いはすべきではなかったはずです。テルミンの反応は、余りにも自然で率直なものであり、世間知らずなアルビジョア派信徒、すなわちソ連市民の反応そのものでした。

彼のアメリカでの生活については、一冊の本を丸ごと費やして書くことができるほどであり、それを書くべきはアメリカ人です。それ自体が壮大な一大叙事詩と言えるでしょう。ここでは、彼の断片的で上完全な回想録と、アメリカの報道機関からの引用をモンタージュして紹介する、にとどめておきましょう。

1) Szigeti J. 『With strings attached』 - ニューヨーク、1947年、225-226頁。


 
 
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